福井・三国「雄島(おしま)」

大湊神社と朝倉義景の物語

福井県三国にある雄島(おしま)は越前海岸最大の島である。

島は1200万年前に噴出した溶岩、輝石安山岩の美しい岩肌が東尋坊と同じ柱状節理を見せている。

初夏ともなると、その岩肌に浸食されてできた穴や割れ目にイワツバメが巣を作り始める。

島の北東には厳しい冬風に押しつぶされた樹形を保つトベラの樹林が見て取れる。

このトベラの木にはある挿話がある。

このトベラの木が白い花を咲かせる初夏の頃、雄島周辺には鯛が産卵のため押し寄せる。ゆえに漁師たちはこのトベラを鯛の木と呼んでいるのだ。

雄島には大湊(おおみなと)神社が祀られており、島は鎮守の森として信仰されてきた。

おかげで今日、島を歩くとシロダモ、タブノキ、スダジイなどの珍しい原生林を見ることができる。

 この大湊神社には伝説がある。

昔、外敵―恐らく大陸からの侵略者であろう-が三国に襲来してきた。

すかさずこの社の祀神である天照大神が三国町陣ヶ岡でこれを迎え撃ち撃退したという。

これを時の天皇文武天皇が聞き及ぶこととなり社領が寄進され、この伝説を以て大湊神社は弓矢の神として武人に崇拝されることとなったのだ。

 源義経もその知識はあったのだろう。

小丹生の海岸岩(「弁慶の洗濯岩」)で衣を洗った後、義経の一行は逃避の道すがらこの雄島にも立ち寄って道中の安全と武運を祈願した。

 雄島は福井に在るわけだから大湊神社は戦国時代にあっては福井領主である朝倉氏の庇護を大いに受けた。

だが歴史のサイコロは気まぐれに転がる。

庇護主の朝倉義景がこの社の運命を大きくゆさぶることとなってしまった。

 時は永禄から元亀、天正にかけての数年間。日本各地には群雄が割拠し、武勲を立てて奉公する郎党とそれに御恩で報いる棟梁との封建主義が日本を覆う政治システムであった。

 勝ち馬に如何にして乗るか。

その勝ち馬を如何にして見分けるか。

各地の中小武将たちは京都の将軍足利氏

、美濃から全国統一の舞台へと踊りだそうとしつつあった織田信長、甲斐の国の武将武田信玄などの有力武士たちの顔色をきょろきょろ見比べるような状況だったのである。

 朝倉義景は元々温和な性格で詩歌や茶の湯をたしなむ文人でもあったから、さぞかし当時の世は彼には生きにくかったことだろう。

あまつさえ、2度も妻や嫡子を亡くし彼はすっかり厭世的になっていた。

「したくもない戦に駆り出され、戻っては妻子が死ぬ。我が人生は呪われているのだろうか。」

 すっかりふさぎこむ主君を案じて家臣がお膳立てして迎えたのが小少将(こしょうしょう)という、義景の家臣の娘であった。

 小少将が義景の前に額ずいたとき、義景は生唾をごくりと飲み干した。

「すげえ美人~!」

 夫婦なのだから別段構わないのだが、婚礼の日以来義景は妻と閨に籠りきり。

こういう女性を中国では傾国というのだとか。

 さらに小少将は義景の政治にも次第に口をはさむようになり、家臣たちからの支持率は急下降だ。

ただでさえ武将としての才能が薄い義景は織田信長とついに刃を合わせる事態となったとき、判断ミスを連発して自軍を壊滅状態に導いてしまい、あえなく自刃の最期を遂げた。

 当然のことながら、織田信長は義景の息のかかったところは徹底的に破壊の限りを尽くす。かくして、雄島の大湊神社もその兵火に完膚なきまでに焼き払われてしまったのだ。

 1573年の秋の事であった。

 織田が、豊臣秀吉が天下を取りやがて徳川家康の治世下となると1621年、越前藩主松平公が社を再建し、この神社と島には平穏が戻ってきた。

雄島の朱塗りの橋を渡り鳥居をくぐると登りの石段である。

左手に折れさらに鳥居をくぐって大湊神社の拝殿前に出る。

 鬱蒼と茂るシロダモの林に包まれた社殿を前にして目をつぶると、火矢を放つ兵たちの嬌声と馬のいななきが聞こえてきそうである。

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