京都嵯峨野路を歩く~1

化野(あだしの)から祇王寺辺りまで

嵯峨野(さがの)は京都洛中(らくちゅう)の西にあり、公家たちは西郊(さいこう)と呼んだという。平安時代(へいあんじだい)以来、嵯峨野は天皇(てんのう)や貴族(きぞく)たちの行楽地(こうらくち)であった。愛宕山(あたごやま)のふもと、愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)から嵐山(あらしやま)を西に眺(なが)め、北に小倉山(おぐらやま)を臨(のぞ)む渡月橋(とげつきょう)辺りまでのおよそ2キロの道を歩く嵯峨野歩きはまことに風情(ふぜい)があって良い。

東の鳥辺野(とりべの)と並んで風葬(ふうそう)の地であった化野(あだしの)に立ち込める儚(はかな)さの気。嵯峨鳥居本(さがとりいもと)に佇む茅葺(かやぶ)き古民家(こみんか)と農家風(のうかふう)町家(まちや)を両脇(りょうわき)に抱える愛宕街道(あたごかいどう)をそぞろ歩けば、うたかたの泡沫(ほうまつ)にも似た人の生涯(しょうがい)であるがひたむきに生きた庶民(しょみん)の暮らしの熱が伝わってくるように感じられる。

八体地蔵(はったいじぞう)の三叉路(さんさろ)を東に直進すれば清凉寺(せいりょうじ)、そして大覚寺(だいかくじ)。右に折れれば小倉山のふもとの竹林である。祇王寺(ぎおうじ)に隠遁(いんとん)した祇王(ぎおう)母子が権力者平清盛(たいらのきよもり)に翻弄(ほんろう)される生き様はまさしく荒波にもまれる小舟(こぶね)であろうか。

名うての好色家(こうしょくか)清盛に飽きられ棄てられて祇王が母妹たちと共にこもった草庵は小倉山の深い森に静かに抱かれて佇む。それでも祇王母子の供養塔(くようとう)を境内(けいだい)に建立(こんりゅう)した清盛の胸中を察するとすれば、気ままな我が身に寄せてくれた祇王の純愛(じゅんあい)へのせめてもの詫(わ)びの念だったのだろうか。

その後まもなくの源平合戦8げんぺいがっせん)で源氏(げんじ)の軍勢に打ち破られて果てる清盛の命も生涯も、葉に結ぶ朝露(あさつゆ)のごとくはかないものである。嵯峨野路には談笑(だんしょう)しながらの散策(さんさく)を楽しむ若い娘たちの歓声(かんせい)が軽(かろ)やかに響(ひび)いている。それもまた人の生である。

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